

バックナンバー1 赤い皇女〜天馬空を駆ける〜エリザベート
■ハプスブルグ家最後の皇女
ハプスブルグ家のエリザベートといえば、伝統的な美しさで知られる皇女フランツ・ヨーゼフの妃(愛称シシィ)が有名ですが、今回ご紹介するエリザベートはその孫娘です。ただ、彼女はハプスブルグ家の家計図の中にはほとんど登場しません。というのは、エリザベートは18歳の時に軍人と貴賎結婚するために臣籍降嫁し、さらにはその後実家であるハプスブルグ王朝が崩壊してしまったためです。王朝滅亡後多くのハプスブルグ家の人々が王政復興に力を注いだのに対し、彼女は逆に王政復興派とは対立する社民党に入党し、「赤い皇女」との呼び名を取るという波乱に満ちた人生を送ることになったのでした。エリザベートは1883年オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子であったルドルフとベルギー王室出身のステファニー妃との間に生まれました。ところが5歳の時、父ルドルフが愛人と情死し、ウィーン宮廷で何不自由なく育った平和な生活は早くも終わりを告げます。母が悲しみと怒りで錯乱状態だったため、幼いエリザベートはおじいさん子として育ち、フランツ・ヨーゼフ皇帝も彼女のことを溺愛しました。皇帝は彼女に高度な教育を施し、中でもエリザべートが才能を発揮したのは絵画でした。彼女はシェーンブルン宮殿に専用のアトリエを持ち、一人でよく絵筆をとっていました。15歳の時、またもやハプスブルグ家を不幸が襲います。今度は祖母エリザベート(シシィ)の暗殺でした。犯人はルイジ・ルケーニというを「無政府主義者(アナーキスト)」名乗るイタリア人。悲嘆に暮れるエリザベートは祖母を暗殺した「無政府主義者」という聞き慣れない言葉に関心を持ちます。彼女の危険な質問に宮廷内では誰一人答えようとはせず、教えてくれたのは絵画の先生ただ一人でした。以来エリザベートは、皇女にはタブーである社会的知識をもこっそりと学び始めます。様々な思想や社会運動が渦巻く世紀末のウィーンで、好奇心が人一倍強い彼女はこのように世の中の動きに大いに関心を持つようになったのでした。
■一途な初恋
祖母の死により一時期憂愁に沈んでいたエリザベートですが、16歳の時に晴れて舞踏会デビューを果たします。王族の一行が大広間に入ってきたとき、招待者たちの目は皇女エリザベートのあまりの美しさに釘付けになり、水を打ったように静まり返ったといいます。エリザベートは当時では珍しいほどの長身で、1メートル85センチに達していました。ほっそりとしたその長身には洗練された優美さと生まれながらの高貴さが匂いたち、祖母エリザベートの気品ある美貌と父ルドルフの繊細さと知性を引き継ぎ、ハプスブルグ家正当の女性である資質を一身に備えもっていました。この舞踏会でエリザベートは若き青年将校、オットー中尉に一目惚れします。皇女と将校では身分上結婚する相手として相応しくないことは十分承知していたものの、エリザベートはどうにも抑えられない恋心に悩んだ挙句、皇帝に直訴します。身分違いの結婚に当初はきつく反対する皇帝もエリザベートの一途な気持ちについに折れ、婚約者がいると結婚を辞退するオットー中尉に対し、強引にエリザベートとの結婚を命じたのでした。オットー中尉との貴賎結婚の条件として、エリザベートは皇位継承権放棄の宣誓に署名します。これにより、彼女自身はもちろんのこと生まれてくる子供にも皇位継承権はなくなりました。当時宮廷権力には無関心で、ひたすら幸福な結婚への憧憬だけがあった18歳のエリザベートは皇位継承権などに関心もなくあっさり承諾しました。オットー中尉と結婚できればそれで十分だったのです。この儀式をもってエリザベートはハプスブルグ家と法的に離別することになりました。こうして強引に結婚し、4人の子供にも恵まれたエリザベートでしたが、蜜月も長くは続きませんでした。エリザベートが関心を持ち、情熱を込めて話す様々な話題、それらは政治から芸術に至るまで多岐に渡るものでしたが、軍人であるオットーはそうした話題には関心がなく、いつしか夫に対する不満が募るようになったのです。そのような時期、疲れた神経をいたわるために立ち寄ったアドリア海のブリオニ島で、3歳年下の若い海軍少尉エゴン・レルヒと知り合い惹かれ合うようになります。エリザベートは周囲の目などは一切お構いなしにレルヒにのめりこみ、噂はたちまちウィーン社交界中に広まりました。浮気や情事は隠れて行うものという社交界暗黙のルールを守らないエリザベートに人々は冷ややかな視線を注ぎ、オットーに対する同情は集まるばかりでした。こうして二人の結婚は20年間で破綻します。さらに33歳の時に皇帝をなくしてからは、宮廷内で唯一の保護者も失ってしまったのでした。
■赤い皇女
皇帝亡き後、スキャンダルばかりの自由奔放なエリザベートは一族の恥じだと旧王族から完全に孤立してしまいました。しかし彼女の方も離別は望むところでした。長ずるにつれて性格も行動も反逆児だった父親に良く似てきたエリザベートは、父ルドルフと同じように王朝の没落を早くから予感していました。崩壊は悲しむべきことでしたが一人で荒波を乗り切らなければと覚悟を決めていたのです。またエリザベートは第一次大戦が終局に近づくにつれ、次第に勢力を得てきた社会主義の思想と運動にいち早く関心を示しました。やがてエリザベートは社民党に入党し、40歳で党首のベツネックと再婚。「赤い皇女」というエリザベートの呼び名はこの時から広がったのでした。
その後エリザベートは熱心に政治活動を行い、社会主義運動を応援しましたが、プラハやハンガリーで相次いで社会主義運動が弾圧されるたびに、期待をかけては失望、落胆し続けた彼女は、晩年次第に国際情勢の動きにも関心を失い、じっと自分の世界に閉じこもるようになっていきました。やがて72歳で夫に先立たれてからは急速に生きる気力を失い、果てしなく続く深い孤独の中、1963年に79歳の生涯を終えました。彼女の遺言は「一切のハブスフルグ家の宝物、美術品を遺族ではなく、オーストリア共和国に寄贈する」というものでした。父や祖父母から受け継いだ資産でしたが国の宝なのだから国に戻そう、とうのが基本的な考え方だったようです。この遺言からも王政や財産に執着せず、遺族「赤い皇女」として信念を貫いた彼女の人生はその死の間際まで一貫していたことが分かります。
ヨーロッパ最高の名家に生まれながら王朝が没落した後は自ら過去の栄光を断ち切り、激動の時代をひたすら自分の道を突き進んでいったエリザベート。彼女の生き方が際立っているのは、王朝の出身であるという制約や王朝崩壊という苦悩の中で、過去と潔く決別し、周囲のことなど気にせず天馬空を行くようにひたすら自らの人生を突き進んでいったところにあるといえるのでしょう。慣習や常識にとらわれることなく、「自らの人生は自らで歩もう」という強い信念に貫かれた彼女の生き方は、まさに「ハブスブルグ家最後の皇女」といて相応しい人生だったのではないでしょうか。
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