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バックナンバー2    ゲーテの妻であることの喜びと悲しみ −クリスチアーネ・ゲーテ

ゲーテの選択
 法的な婚姻届を出さずに暮らすこと。今でこそ事実婚と呼ばれ、新しい結婚のかたちとして認知され、年々その数が増えつつありますが、250年ほど前の18世紀では、身分や家柄の違いなどから正式に結婚できない、いわば公にできない結婚の事でした。
 文化の薫り高い古都、ヴァイマル生まれのクリスチアーネ・ヴィビウスが事実婚、それも16年間もの長い事実婚を強いられたのは、その相手が文豪であり、カール・アウグスト大公から厚い信を寄せられて、ヴァイマルの最高機関である枢密会議顧問を務めていたゲーテであったからでした。
 この身分違いの二人が出会ったのは、ゲーテがイタリア遊学から戻ったばかりの頃。政治の要職にある重圧や、交際相手のシュタイン夫人との関係に行き詰まり、それから逃れるようにイタリアへ向かったゲーテは、明るく温暖な気候と陽気な人々の中で身も心も解放され、まるで別人のようになってヴァイマルへ戻ったのでした。
 1788年7月12日と伝えられているその日、クリスチアーネは一通の手紙を手に、イルム河畔沿いの公園でゲーテが通りかかるのを待っていました。その手紙は兄が書いたもので、自らの就職に力添えを嘆願する内容でした。愛する兄のために緊張しながら佇む、小柄でふっくらと愛らしい顔立ちのクリスチアーネを見たゲーテはたちまち心惹かれ、二人はその日のうちに激しい恋の炎に身を焼かれたのでした。あまりに性急な成り行きにゲーテは、「恋人よ 汝がそのように早く降伏したことを悔いないでおくれ 私を信頼してほしい 私は汝を大胆とはみなしていないのだ! 私はただ敬意だけを感じている」と、『ローマ非歌』の中でうたい、クリスチアーネの気持ちを慮っています。
 しかし、この出会いは果たして偶然の産物だったのでしょうか。年頃の妹を使いに出すことで事を有利に運ばせたい、そんな兄の思惑が少なからず働いていたのではないか、そんな推測もできそうです。
 こうして会ったその日からゲーテと恋愛関係に陥ったクリスチアーネ。しかし当時の社会通念では、貧しい家庭出身のクリスチアーネには正式な結婚はかなわず、同棲生活というかたちしかありませんでした。極秘に始められた関係。しかしそれが周囲に漏れ始めた時、大きなバッシングの嵐が二人を襲いました。



シュタイン夫人とクリスチアーネの間
「ゲーテの女中」「美しき肉の塊り」「無教養」などと悪意のある言葉を浴びせられるクリスチアーネ。 ゲーテの君主、アウグスト公も含めて社会全体が二人を拒絶する中で特に激しくゲーテを非難し、クリスチアーネを愛人兼売春婦とさげすんだのは、ゲーテと10年以上も親密な交際を続けていたシャルロッテ・シュタイン夫人でした。
 7歳年長ある夫人とゲーテは宮廷で出会って、精神的な恋愛関係へと発展。次第に想いをエスカレートさせたゲーテは、「運命はわたしたちに 何を用意しているのか 運命はわたしたちを 何故こうも解きがたく結び付けたのか ああかつての世 あなたはわが姉わが妻であったのだな」などと、夫人への熱い心情を書簡にしたためて次々と送っていた蜜月の日々もありました。
 それゆえにゲーテの恋心に激しく動揺し、裏切られたという思いを抑えきれない夫人。しかしゲーテのほうはすでにクリスチアーネに心を奪われ、シュタイン夫人への想いは冷めて、友情に変わっていたのでした。
 「どんな娘がよいとお尋ねですか?私にはもういるのです、私の望みどおりの人が。掘り出し物を見つけたような思いです」とゲーテがうたえば、クリスチアーネも「ヴァイマルの人たちは意地悪をするのが御好きですが、私は気にしません。私はあなたを、あなただけを愛しています。坊やの面倒を見て、家の中のことをきちんとして、楽しく暮らします」とゲーテに書き送っています。
 二人が正式に結婚したのは、同棲してから18年後のこと。二人の間に生まれた息子アウグストはまもなく17歳になるところで、ゲーテによって認知されていたものの、法的には非嫡子の立場。結婚によって彼に市民権を与えることもその大きな理由でした。クリスチアーネもまた正式な妻として認められ、晴れて枢密顧問官夫人として社交界にデビュー。人々の好奇な目にさらされながらも、一歩一歩新しい環境に踏み出しました。
 結婚したとはいえ、二人、特にクリスチアーネに対する誹謗中傷は止むことがありませんでしたが、なぜゲーテはそれにめげず、家柄も教養も高い数多の女性たちより、クリスチアーネを妻として選んだのでしょうか。それは後年、ゲーテが語ったこの言葉の中に、その答えをうかがうことができます。
 「恋愛と知性がなにか関係でもあるというのかね? われわれが若い女性を愛するのは、知性のためではなく、別のもののためさ。美しさや、若々しさや、いじらしさや、人なつっこさや、個性、欠点、気まぐれ、その他一切の言いようのないものをわれわれは愛しはするが、彼女の知性を愛するわけではないよ」(エッカーマン『ゲーテとの対話』)


■「私の愛する人が・・・・」。
 芸術家にとって女性の存在は、豊な創造力を生み出す源。ゲーテもまた「西東詩集」、「若きウエルテルの悩み」、「ファウスト」など数々の作品に女性たちとの恋愛や交流を投影させています。
 クリスチアーネもまたそうした女性たちの一人に違いありませんが、彼女は知性や教養を売り物にするより、家事能力に長け、感受性の強いゲーテを優しく包み込む温かさと愛らしさを持ち合わせた人柄。何よりもそれがゲーテに心からの安らぎや癒しを与えたのでしょう。ゲーテという偉大な存在を家庭から支えたクリスチアーネは、夫より16年も早く、67歳でこの世を去りましたが、その家庭生活の内実は、幸せにあふれ、充たされたものとは言い難い現実があったようです。
 そのひとつは、ゲーテの創作活動のために余儀なくされる別居や旅による長い不在。「恋しくて恋しくてたまりません」、「坊やはいつも『お父さんのお帰りはまだなのね』といいます」と何度も淋しさを繰り返し訴え、帰宅を乞う手紙が残されています。さらに4人の愛児の死という悲しみ。それでもひたすらゲーテを見つめ、あふれる愛を捧げたクリスチアーネ。
 「おお 太陽よ 無駄な試みを止めよ 汝の輝きと言えども この暗く重い雲を貫くことはできない! 残されし人生にわれのなすことは ただ失いしものを嘆くことのみ」。
 ゲーテは彼女の死をこう絶唱し、そして友人に宛てた手紙の中でこう報告しています。
 「私の愛する人が、かわいい妻が、この日我々のもとを去った」。」


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