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バックナンバー3   幸福か芸術か。芸術家同士の結婚の現実。 −クララ・ヴェストホフ・リルケ

■ヴォルプスヴェーデの女性彫刻家。
 射るような強いまなざしでこちらを見つめる女性。その傍らに立ちながら別の方向へ視線を向ける男性。
この写真が撮影された時、すでに二人は別居していた。その事実を知ると、向き合うことを止めてしまった二人の距離の深さをうかがうことができます。彫刻家クララ・ヴェストホフ・リルケと詩人ライナー・マリア・リルケ。研ぎ澄まされた完成と創造に対する強い自我。芸術家同士の結びつきはそれゆえに激しく、またはかないと言えるのかもしれません。
 二人が出会ったのは、童話「ブレーメンの音楽隊」の舞台で知られる北ドイツ・ブレーメン郊外のヴォルプスヴェーデ。19世紀末に一世を風靡する芸術家たちが自由な創造の場として移り住んだ芸術村でした。
 「彼女は白い麻で作った、胸着のつかないアンピール風の着物を着ていた。胸を短めに軽くしぼり、長い襟がなめらかに流れている。美しい浅黒い顔のまわりでは、衣裳にあわせて両頬のあたりまでゆるやかに垂らした、軽やかな黒い捲毛がそよいでいた。ぼくはこの晩、くりかえし彼女を美しいと思って見た。」日記にクララの印象をこう記したリルケはその時25歳。詩人として脚光を浴び、ニーチェをはじめ多くの知識人を虜にした才女ルー・アンドレアス・サロメとも親密に交際していました。しかし二人は結婚、ほどなくして娘ルートが誕生しました。
 友人への書簡の中で、「いま、妻も娘も大変元気です。金曜日にはベルリンで私の劇が初演されます。しかし、私は出かけられません。家族を孤独な、雪にとじこめられている村にさびしく残してはいきたくはないのですから。」と家族への愛情を綴ったものの、1年あまりで家庭生活は崩壊。そして、幼いルートをクララの実家に託し、二人はそれぞれ芸術の道を求めて歩き出しました。




理想の結婚
 クララ・ヴェストホフはまだ女性に対する偏見の多い時代に、17歳で彫刻家をめざして故郷ブレーメンを離れました。パリでロダンの設立した彫刻学校へ通ったものの、都会の喧騒より静かな環境で制作することを選び、ヴォルプスヴェーデの隣村ヴェスタヴェーデにアトリエを構えました。
 「彼女は一人の老いた夫人を彫塑したのですが、それはとても内面的でしかも綿密な作品でした。彼女が自分の作った胸像の横に立ち、修正を加える様子をわたしは賛嘆の思いで見守っていました。彼女と友達になりたいと思います。彼女は外見が大柄で綺麗なだけではなく、人間としても、芸術家としてもそうなのです。」友人の画家パウラ・ベッカーの賛嘆にとどまらず、クララの芸術家としての才能は指導者からも高い評価を受けていました。
 結婚後、クララは変貌します。彼女の友人たちは、「あの素敵な、あちこち軽やかに動き回っていたクララ・ヴェストホフが静かになってしまい、かつての、嵐の風のようなさざめきも彼女からは聞かれなくなってしまった」「いまや翼を切り取られた一羽の鳥のように静かに彼女は座っている」と嘆きました。
 「立派な結婚というのは、当事者めいめいが相手を自分の孤独を見守ってくれる見張り人に定め、自分のほうでは相手に与えなければならない最大の信頼を身をもって実証してゆくような結婚だと思います。」あくまでもお互いの自由な空間と距離を確立した上での結婚であり、自分たちは全く対等な立場で満ち足りていると述べるリルケ。
 しかし、リルケの友人が「人間リルケと詩人リルケとは一つのものだった」と評しているように、どんなに高い理想を掲げ、美しい言葉を連ねても、リルケもまた19世紀の男性上位社会に生きる人でした。現実的には自らの創作活動を優先し、家事や育児、家計のやりくりに疲弊する妻への思いやりは見られず、経済的な困窮も重なって、彼らの結婚生活は破綻したのでした。


■語られなかったクララの思い。
 放浪と女性遍歴は、芸術家の人生に共通して現われる。ある意味では、それが創作を生む豊かな源泉のひとつになったのかも知れない。モーツアルトもヘッセも、そしてリルケも例外ではありませんでした。
 別居後、リルケはクララが師事したロダンの秘書を務め、その経験を基に『ロダン論』を執筆。ヨーロッパからアフリカへと講演を行いながら旅を重ね、ルー・サロメをはじめ、女性たちとも親密な交際を続けました。一方、クララは離婚を要求しますが、法的手続きの煩雑さから遂行されず、リルケが亡くなるまで、二人は法的には夫婦のままであったといわれています。
 結婚の破綻による精神的な苦痛や経済的な苦境と闘いながら、娘を引き取り、絵画のべんきょうから芸術家としての再スタートを切ったクララ。「私はだんだんまた自由でようきになってきました。どうして絵を描くことはこんなにわたしを幸せにするのでしょう?どうして何時間も小さなつまらない物の前に座っていられるのでしょう、しかも、ずっと広がる未来を前にしているような気持ちで?」絵画から彫刻へ向かいながら、彼女は弾むような言葉で、再び手にした芸術の喜びを語っています。
 芸術家としての彼女の名前が公に登場するのは、ヒトラーの命によって1937年にミュンへンで開催された「大ドイツ芸術展」でした。出品したリルケの胸像が評価されましたが、一説には、それは彫刻家クララへの正当な評価ではなく、ナチスがリルケをシンボル的存在として必要だったという影の声も囁かれました。夫の名前の下でしか評価されないという、素直に喜べないものだったと言われていますが、彼女はそうした政治的な作為に左右されず、静かな創作生活を大切にしたと言われています。
 クララがリルケに宛てた書簡などがいまだに未公開のため、残念ながら彼女の肉声をほとんど聞くことができません。リルケの没後、彼の胸像を制作しながら、彼女は一体どんな思いを抱いていたのでしょうか。内包された多くの言葉は、いまも封印されたままになっています。


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