バックナンバー6 あふれる愛と知性を夫に捧げた、献身という生き方。 −イェニー・マルクス
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社交界の美しき華。
女性にとって、結婚した相手や生きた時代によって、その運命が大きく左右されてしまうことはよくあることです。イェニー・ヴェストファーレンの場合、夫が「共産党宣言」や「資本論」を著したカール・マルクスであったこと。そして女性の高等教育や社会進出が確立されていない19世紀半ばに生きたこと。それが彼女の人生に大きな光と影を生みだしました。
「素晴らしい!」。若きイェニーにあった人々は必ずこう言って賞賛したといいます。美貌と知性、そして明るい性格を持ち合わせて、社交界の華だったイェニーは、1814年ライン川中流にある小都市トリーアでフォン・ヴェストファーレン男爵を父に生まれました。一方、カール・マルクスはユダヤ人の弁護士を父に1818年に誕生。父親同士の親交が篤く、家族ぐるみで交際をしていたことから、2人は10代の頃に出会った、いわば幼なじみです。そして、カールがボンの大学で法学を学んでいた時に婚約します。カール19歳、イェニーは23歳でした。しかし、2人は結婚にこぎつけるまで7年の月日を待たなければなりませんでした。その理由は、ヴァストファーレン家がカールの将来に不安を抱いたからと言われています。
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転居と貧困の日々、そして。
2人が晴れて結婚したのは1843年。それまでの間、ヘーゲル哲学や社会主義活動へ急激に傾倒していくカール。トリーアで不安な心を支えながら、カールの影響でヘーゲルを読み、ギリシャ語を学びながら待ち続けるイェニー。そして、「カール、カール、私はどんなにあなたを愛していることでしょう!」「愛しいあなた、あたしはあなたにとって、なくてはならない存在になるでしょう」と彼に手紙を書きつづけました。
しかし、待ち望んだ結婚生活は波乱と激動の始まりでした。カールが執筆していた「ライン新聞」が発禁処分となり、新婚の2人は新天地を求めてパリへ。パリからも追放され、ベルギー、そして再びパリへ。その後はドイツ、ロンドンとボヘミアンのように転居を繰り返す生活。不安定な収入による貧困とそれを埋めるために借金を繰り返す日々。その中でイェニーは7人の子供を出産し、そのうち4人を亡くすという深い悲しみに襲われます。一方で、カールはフリードリヒ・エンゲルスと共同研究による「共産党宣言」や「資本論」などを著し、名声を高めていきます。夫の原稿を真っ先に読み、それを清書する有能な秘書役もイェニーの仕事でした。
そんなイェニーにさらに大きな渦が降りかかります。カールの背信。その相手は長年、一家と寝食ををともにしてきた小間使いのヘレーネ・デムート。しかも男児まで儲けていました。この事件は、エンゲルスが死の直前に明らかにするまで永い間封印されており、イェニーの書いたものの中にも「1851年夏の初め、ある事件が起こり、公私共々我々は大変悲しい思いをしましたが、これについて語るつもりはありません。」と短くあるのみです。
しかし、貧困や悲運に苦しみ、絶望と闘いながら、なおも彼女はこんな言葉を残しています。「カールの小さな部屋で、彼が書いたものを写しながらすごした日々は、私の人生の中でもっとも幸せな瞬間でした」。
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これでムーアもおしまいだ。
イェニーが1881年に他界したとき、エンゲルスが弔辞を述べました。「彼女は、高貴な心を持った女性でした。実に明晰な、批判力に富んだ知性を持ち、確固とした政治的手腕を持ち、偉大な情熱のエネルギーと献身の力を備えた女性でした。我々はしばしば、彼女の勇気と思慮に満ちた意見を求めました。それらはすべて、いささかも人間の名誉を損なうことのない、大言壮語もない、それでいて思いやりの深い意見でした。」
そしてさらに、「これで、ムーア(カールの愛称)もおしまいだ」。そう言わしめたイェニーは、彼女個人としてではなく、あくまでもカール・マルクスの妻として生きた女性です。一見カールへの献身、自己犠牲に徹した人生、のように見えますが、イェニーの人生をたどると、よき妻、よき母であり、またカールの思想や理論を伝える有能な秘書としての役割を果たすことで、自分自身を生きているという充足感を得ていた彼女を強く感じることができます。後年、生活が安定し、ロンドンに大きな家を持つことができた時、彼女は名刺を作らせました。「元フォン・ヴェストファーレン男爵令嬢 カール・マルクス夫人」。夫の思想に反して、実に資本主義的なこの名刺に、イェニーの微笑ましいほどの出自に対するプライドが感じられます。
もし、イェニーに妻や母という領分を離れて、自らの豊かな才気や裁量を自由に生かしたいという望みがあったとしたら、また違う人生があったかも知れません。しかし、彼女が生きた19世紀という時代がそれを許さなかったのです。イェニーの死後まもなく20世紀を迎えたとき、ドイツでも女性の大学入学が制度化され、新しい女性の時代が大きく動き始めました。
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