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バックナンバー10
真の自由を求め続けた情熱の作家 -ルー・サロメー
細く均整のとれた体を黒いドレスに包んだ美しい女性、真っすぐこちらへ向けられたまなざしには、内包する高い知性と燃えるような意志が漂っている。女性の名はルー・サロメ。
十九世紀末、あらゆる既成概念に挑戦した、時代の先駆者であり、ニーチェ、リルケ、フロイトなど当代のヨーロッパ最高の知識人たちと深く交流し、彼らに大きな影響を与えました。生来の知性と美貌に加えて、自由を追求しつづける崇高な精神は、最高の頭脳を持つ男たちを激しく魅きつけ、翻弄します。それはまさに、予言者ヨナカーンの首を求めた王女サロメと重なり、その底知れない激しさ、奔放さゆえに漆黒のイメージを与えます。
しかし、「ルーが情熱の対象にした男は傑作を生む」の言葉通り、ルーは鋭い感性で男たちの知性を発見し、それを愛という名の下で磨き、大成させました。それゆえに“運命の女ファム・ファタル”と呼ばれたルー。彼女の魔力は、高い理想を掲げて自らの生を貫く意志とともに、晩年まで衰えませんでした。
ルーの存在の輝きはまた、彼女が人生の大半を過ごしたドイツの大いなる風土によるものです。自由奔放な彼女の、反道徳的とも見える行動を受容し、成熟させたドイツの包容力、その中でこそルーはいきいきと強烈な光を放ったと言えると思います。
ルー・サロメは一八六二年、ロシアのペテルスブルグにフランス系ユグノー教徒の子孫として生まれました。ルーは愛称で、正式にはルイーズ。父はロシアの将軍、愛情にあふれた、裕福な家庭で、聡明で感受性の鋭い少女に育ちました。五人の兄という兄妹関係が、その後のルーの男性観や中性的な性格に大きな影響を与えたに違いありません。
ルーは十八歳の時、ロシアを離れ、当時、先進的学問の中心であった、スイスのチューリッヒ大学へ留学します。大学での過度の勉学で体を壊したルーは転地療養先のローマヘ。そこで、女権運動の先覚者マルヴィーダ・マイゼンブークと出会います。彼女のサロンは、ヴァーグナー、リスト、ロマン・ローランなど著名な学者や芸術家たちの集まる場として知られ、その交流の中でルーが出会ったのが、『悲劇の誕生』『人間的な、あまりに人間的』の著作で知られていた哲学者ニーチェと友人のパウル・レーでした。ニーチェとレーはたちまちルーの虜となり、奇妙な愛の三角関係が生まれます。
愛の新しい関係を模索していたルーは二人に共同生活を提案しますが、愛についてのとらえ方の相違から実現せず、ニーチェはルーに結婚を拒絶されて去り、傷心の中でニーチェ哲学の頂点といわれる『ツァラトゥストラはかく語りき』を執筆します。
一方のレーとはベルリンで共同生活を始めますが、結局ルーは東洋学者アンドレアスと衝動的ともいえる結婚をします。レーは絶望の余り自殺して果てます。ルーの男性観は中性的で、それは五人の兄の中で育った幼児体験が大きく影響し、またあらゆる束縛から自由でありたいとしたルーの一貫した思想を見ることができると思います。
一八九七年、ルーの前に現れたのは十四歳年下の詩人リルケ。彼の熱烈な求愛に応えて、二度にわたるロシア旅行など親密なつきあいをしますが、最終的にルーは自由を求めて去って行きます。リルケはこの経緯の中で『新詩集』を発表して、大詩人への道を歩むことになります。
そして五十歳の時、ルーはフロイトと出会い、本格的に精神分析の研究を開始。このことはルーにとってそれまでの理論を見直す契機となり、また彼女の深い分析力と洞察力はフロイトに大きな刺激を与えました。彼女は後半生を研究とセラピストとしての活動に費やし、一九三七年、小説、戯曲、評論等多くの著作を遺し、七六歳でこの世を去りました。ゲッチンゲン市有墓地にある夫の隣に葬られたルーの墓には、彼女の希望により墓碑銘が刻まれませんでした。
名のない墓、それこそは漆黒のイメージで登場したルーが、自身の知性も、業績も、数々の知識人との深い交流もすべて含めた、自らの生の証し一切を死とともに消し去って、純白のイメージを選んだことを意味しています。そこに真の自由を求め続けたルー・サロメの真骨頂があると思います。
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