|
バックナンバー11
家庭と芸術のはぎまで葛藤した天才ピアニスト。 -クララ・シューマンー
「彼女の指の下でピアノは生命力を持つ」。「驚くほど見事な、堅固に組み立てられた演奏。彼女の手の下でピアノは姿を変える」。1831年のある日、ドイツ・ワイマールで文豪ゲーテをはじめ、数々の人々の賞賛の中に、12歳の女性ピアニストが頬を染めて立っていました。彼女の名はクララ・ヴィーク。リストと並ぶ天才ピアニストと称えられ、後にドイツ・ロマン派の代表的作曲家、ロベルト・シューマンの妻となった女性です。しかし、この賞賛の中には、「けれども、彼女はどこか不幸と苦しみの影を持っており、それが私を悲しませた」という言葉も含まれており、それは、クララの陰影の濃い人生を予見しています。
1819年に生まれ、96年に没したクララ。彼女が生きた19世紀のドイツは、革命の嵐が吹き、産業革命が発展して、政治や社会の枠組みが大きく変革した時代であり、芸術や文化も夢や憧れを尊重するロマン主義へと移行していきました。クララの人生もまたそのうねりと共に歩んだと言えるでしょう。
彼女の父フリードリヒ・ヴィークはライプチヒの高名なピアノ教師であり、早くから娘クララの才能を見抜き、厳しい英才教育を施しました。ヴィークの教え方は、想像力や創造性より高い技術性を重んじるもので、クララは忠実にそれに従い、たちまちヴィルトゥオーソ (達人) として演奏旅行に出るようになりました。当時は技術に優れた天才的な子どもがもてはやされ、モーツアルトは6歳から、ベートーヴェンやショパンは9歳から舞台に立っていました。その一人として、しかも男性偏重の時代に希な女性のピアニスト兼作曲家として将来を嘱望されていたクララ。父ヴィークにとっては娘であるとともに、誇るべき大切な作品でした。しかし、そんな彼女の前に現れたのが、ロベルト・シューマンでした。彼は、情感を尊重する新しい音楽の世界をクララの前に開き、強い愛を打ち明けたのです。父の激しい反対と数年にわたる相克の間、ロベルトはクララに捧げるピアノ曲を書き、クララはそれを演奏会で弾き続けました。そして、ついに結婚の請願書を裁判所に提出して、2人は結婚。クララ20歳の時でした。
深い愛と尊敬で結ばれた芸術家同士の結婚。それはクララにとっては、家庭と芸術との葛藤の始まりでもありました。夫のよき理解者であり、結婚後に次々と生まれた八人の子どもたちのよき母である一方で、作曲と演奏活動を続ける音楽家としての顔も持ち続けました。しかし、それも次第に作曲が減り、演奏が中心に変わっていきました。それには、結婚前にロベルトが書いた、こんな言葉が影響していると思われます。
「まず第一に、もし夫を満足させたいならば、新妻は料理と家事ができなければならない……次に、新妻はすぐに大旅行なぞしてはいけない。それどころか、健康に気をつけなければいけない、とくにこれまで未来の夫のために一年中働き、献身的に尽くしてきた新妻は……第八に、作曲はすべて僕がし、君は演奏する」。若くして指を痛め、演奏活動を断念したロベルトに代わって、彼の曲を演奏することがクララの使命でしたが、ロベルトの言葉に見えかくれする男性偏重の時代性。そして、家に一台しかないピアノはほとんどロベルトが作曲に使い、クララが鍵盤に触れるのはほんのわずかな時間だけという現実。こうした葛藤の中にあっても彼女は演奏を続けます。社会の力学に屈せず、芸術への熱い思いを貫いたのです。
夫が作曲し、妻が演奏する。音楽に満ちた二人三脚に幕が降りたのは結婚後16年後のことでした。ロベルトが精神病院で他界。37歳のクララは再び演奏旅行を開始します。
悲しみや絶望から逃れるために、残された子ども達を養育するために、そして何よりも強い使命感を抱いて。「美しい作品を弾いて伝えるのは私の天職だと感じています。そして何よりもまずロベルトの作品を演奏しなくてはなりません。ピアノの演奏は、私の呼吸している空気です」。夫の曲を弾くことに新たな人生の目的と喜びを見いだしたクララ。大勢の人々が彼女を支え、その中にロベルトの愛弟子で、バッハ、ベートーヴェンとともに3Bと呼ばれた作曲家、ヨハネス・ブラームスがいました。彼はクララに終生恋心と尊敬の念を抱き続け、友人にこう書き送っています。「他の女性たちは天国を約束する。だが天国を開けてくれることができるのはクララだけだ」。 クララが没して百年、いま彼女が作曲したピアノ曲が演奏され、CDが発売されるなど、静かなクララ・ブームが起こっています。
〜魂の音楽と評された美しい旋律に、起伏の多い人生の中でピアニストとしてのキャリアをまっとうした、凛とした生き方が重なった時、百年の時を超えて、多くの共感が生まれるのではないでしょうか。
|