■ペルーへの旅立ち、自由を求めて
黒褐色の大地に伸びる白い直線、ナスカライン。見る者を圧倒するコンドルやクモなどの巨大で緻密な地上絵。心の中に浮かんでくる思いはただひとつ、誰がなぜこのような模様を措いたのだろう・・・
南米ペルー。首都リマから南へ約450km、太平洋岸に面した広大な砂漠地帯の町ナスカ。ここに地上絵を見た誰もが感じる純粋な疑問へ、生涯をかけて挑んだ一人のドイツ人女性がいました。その名は“マリア・ライヘ”。
マリアと地上絵の運命的な出会いは、ペルーへの旅立ちから始まります。1932年、くし
くも世の中は第二次世界大一戦への序曲が流れ、ドイツはまさに暗擔とした時代に突入。マリアはその風向きをすばやく感じ、「どこか自由になれるところへ行きたい」と強く願います。募る想いを胸に秘めたある日、新聞で目にした南米・ペルーでの家庭教師募集広告。マリアはすぐに行動を起こし、暗い時代から逃れるように祖国を後にします。マリア29歳の春でした。
ハンブルクから貨物船に乗り、4週間の船旅を経て、単身ペルーヘ。インカ時代の首都であったクスコで、ドイツ領事の子どもたちの家庭教師として働き始めます。自由への希求からの行動とはいえ、ドイツとペルーを隔てる距離は、現代とは比べものにならないほど遠く、まして女性がひとりでは危険な行為であったはず。彼女自身ペルーに対する知識は、「いつもどこかで革命が起こっているらしい」ということのみだったと言いますから、その勇気には驚かされます。マリアの勇気ある決断と行動力は一体どこから生まれたのでしょうか。
■進歩的な両親に教育を受けた少女時代
マリアは、1903年5月15日ドイツの東端、チェコとの国境にほど近いドレスデンで誕生しました。ドレスデンは、12世紀末からザクセン選帝候の宮廷都市として栄え、バロック様式によって建てられたツヴィンガ一宮殿を代表とする美しい景観の街です。
父は裁判官、母はインテリ家系出身、マリアは妹弟とともに何不自由ない環境で幸せな日々を送ります。少女時代のマリアは、両親譲りの知的な潜在能力を持ちながらも、街や森を駆け回り、自然や生き物を愛する自由奔放な子どもでした。ひとつのことに夢中になるとあとは何も見えない性格。好・奇心のままに地上絵の研究に没頭する日々の片鱗はすでにこの時から現われていたようです。
また、「女性であっても自ら考え、賢く人生を選びとってゆく人間でなければいけない」とマリアに教えてくれたのも他ならぬ父でした。封建的な風潮に流されないマリアの自由な生き方は、ライヘ家の家庭環境と進歩的な教育によって形成され、その後の彼女の人生を牽引し続けたに違いありません。
しかし、幸せな少女時代は突然幕を下ろします。1914年サライェヴォ事件に端を発する
第一次世界大戦で最愛の父が一戦死したのです。母は3人の子を抱え、経済的に苦しい状況に。マリアは、念願であった大学進学を断念しますが、「もっと学びたい」という少女の純粋な願いが天に通じたのでしょうか。敗戦下でインフレが加速度的に進み、どうにか学費を工面。ドレスデン工科大学へ進学し、数学を専攻します。
■ナスカ地上絵との出会い、過酷な研究の日々
クスコでの新しい生活は、自由で新鮮な驚きに溢れ、マリアの旺盛な好奇心を十分に満たすものでした。家庭教師の仕事も順調に進んでいるように思えた矢先、期間半ばにして契約を打ち切られてしまいます。子どもたちの母親は陽気なペルー人、真面目で子どもたちに慕われるドイツ人のマリアのことを快く思わなかったであろうことは想像に難くありません。職を失い、ペルーヘの郷愁と祖国には戻りたくないという気持ちの中で揺れ動くマリア。しかし、この逆風がマリアをナスカに向かわせ、彼女の人生を180度変えることになろうとは、この時は知る余地もありませんでした。
クスコで暮らすうちに南米独自の文化に強くひかれるようになったマリアは、ペルーで生活をするために職を転々とします。やがて運命的に導かれるように地上絵の一部を発見した考古学者フリオ・テーヨの助手として働ようになりました。マリアは、学術書の翻訳をしながら地上絵に関する様々な知識を得る中で、1939年リマに会議のためにやってきたアメリカの歴史学者ポール・コソツクの 「ナスカのラインは天文学的な意味を持つ」という仮説に出会うのです。共感したマリアは、この仮説を実証しょうと、はやる気持ちを抑ゝえ、測量のためナスカへとひとり旅立ちます。「それは、私の運命でした。私はそのために生まれてきたのだと、直感したのです」。
ほどなくしてマリアは活動を始めますが、照りつける太陽、吹きつける熱砂、水のない不毛の地での測量は困難を極めます。地上絵は、太陽の熱により黒褐色となった石が散ら
ばる大地 “パンパ”をキャンパスとして、ライン上の石を取り除き、白い地肌を露出させることで描き出されています。
過酷な環境の中、それでも数学者としての才能をいかんなく発揮し、着実に仮説を実証していくマリア。しかし、自身の情熱のみで活動を続けるマリアには次々と難題が降りか
かります。研究成果をコソックに送り、幾ばくかの報酬を得るものの、あっという間に底をつく活動資金。コソックがマリアの研究を学会で発表することで名声を高める一方、特定の研究所に所属しているわけではなく、ペルーの研究者でも考古学者でもないマリアに注がれる視線は氷のように冷たいものでした。
それでもマリアは研究に没頭し、活動資金がなくなるとリマに出て翻訳などのアルバイトをしてまで研究を続けます。貧困を極めた生活は、食べ物にも事欠き、着ている衣服もいつも同じ。決まって地上絵のラインをきれいに掃くための箒を持っていたので、近所の子どもたちからは魔女だと信じられているほどでした。
くる日もくる日もパンパに通い、時には地上絵の側で野宿をしながら測量を続けます。そして、1952年マリア最大の発見といえるサルの絵を見つけるのです。これを入念に測量した結果、マリアはサルの存在が、北斗七星を表す大熊座の代わりになるものと考えるにいたり、「地上絵は天上の星座をうつしとったもの」という新説を導き出します。
■名声はいらない、地上絵を守りたい
航空写真や航空産業の発達とともに、地上絵は脚光を浴び、サルの発見も手伝って徐々にマリアの研究活動にも明るい兆しが見えてきます。しかし、同時に地上絵を踏み荒らすジャーナリストや観光客の姿が目立つようになってきました。その上、未だ測量のなされていない地上絵を破壊してしまう灌漑水路の建設計画まで持ち上がります。マリアの訴えにより、幸運にもこの計画は中止されましたが、日増しに破壊の一途を辿る地上絵。この時からマリアは、地上絵の解明以上に、その保全に心血を注ぎます。そしていつしかマリアの人生の命題となっていくのです。自身の研究成果で名声を得たコソック、満足なフィールドワークもしないまま華々しく学説を発表する学者たちの存在など全て承知の上、「名声はいらない、ただ地上絵を守りたいのです。」 マリアの悲痛な叫び声が聞こえてくるようです。
■“マドレ・デ・パンパ”からのメッセージ
マリアは80歳を過ぎてもナスカの地で研究と保全活動を続け、彼女を訪ねてくる人のために体力の続く限り、毎晩地上絵の講座を開いていました。いつしか彼女は “マドレ・デ・パンパ(大平原の母)”と呼ばれて敬愛され、周囲には多くの協力者も集まるように
なりました。灼熱の大地で暮らしていたことを物語る日焼けした皮膚、深く刻まれた皺、大きな手・・・それはまさに長い時間をかけて、地上絵に寄り添い、対話をし、無償の愛で包み込んできた母の姿そのものでした。
マリアは1998年にこの世を去り、長い間研究を続け、今なお多くの謎が残るパンパの大
地で永遠の眠りにつきました。私たちがナスカの壮大な物語とともに、マリアの人生にふれた時、こんなにも心を揺り動かされ、感動をおぼえるのはなぜでしょう。それはマリアの中に、時代に翻弄され、逆風にさらされながらも、人間としてどう生きるべきかということに真正面から向かい合い、行動に表した勇気を感じるから。そして、常に極限状態にありながらも、自分自身を見失わず、少女の頃と変わらない情熱を持ち、輝き続ける姿を見たからではないでしょうか。音楽や芸術、人生にいたるまで、最後に人の心を動かすものは純粋な情熱・・・ナスカ地上絵に人生をかけたマリアの挑戦から私の心へメッセージが届きました。
(参考文献)
楠田枝里子(2006)『ナスカ砂の王国』文整春秋282pp.